私自身は、もし…認知症になったとしても、行きたいところに行きたい、と思うし、周囲の人に抵抗なく「私は認知症状態になるんです」と言いたいと思っています。
でも現状では、一般の方々には認知症ということの正しい知識は行き届いていないのが現実です。理解されないから、自分からは言い出しにくいだろうし、行動が制限される生き方になってしまう可能性が高いと思います。
「向こう三軒両隣」と言われていた時代は過ぎ、今は核家族化などによって、お隣さんや地域の中での人間関係はどんどん変化してきました。「人間関係が希薄になった」と、よく言われると思います。こうなると、もし私自身が認知症になっても、お互いにどこまで関わればいいのか…その加減がわからず、見て見ぬ振りとなることでしょう。
つまり、もし私自身が認知量になったら、地域の中で受け入れてもらえる体制が整っていないために、生きにくい状態になることと思います。この状態では、多くの人が認知症になることに対する不安を抱くのは当然のことだろうと思います。
認知症を「よく知らない」から受け入れ難い
「私が認知症になったとき、周囲の人たちは受け入れてくれるだろうか」
自分が認知症になってしまったら、と考えると、誰しもこういった不安を抱いてしまうのではないでしょうか。
でもこれは、認知症というものを「よく知らない」「知られていない」「分からない」から生まれる不安だと考えています。一般的に、認知症のことが詳しく知られていないから、理解されにくい。受け入れ難い。
そして、認知症は「ぱっと見て分からない」ということも原因の一つかもしれません。認知症の人は場面に対して結果がそぐわない行動、一般的に見ると不思議な行動を取ってしまいがちですが、もちろん本人も、迷惑をかけようと思って行動しているわけではないんです。
認知症のことを1つ1つ、細かく見ていくと、実は説明がつくこともたくさんあります。でも、本人は自分の脳の状態が以前と違うことを説明することもできません。そして、見た目での判断がしにくいために、周囲の人からは「前と見た目は変わらないのに何が違うのか分からない」と思われてしまうというわけです。
この「分からない」はやがて嫌悪感に繋がり、恐怖に変わる可能性があるために、周囲にとっては受け入れがたいものだと思います。
認知症にも種類があり、必ずしもそれぞれの認知症の人に同じ症状が起きるわけではありません。その人を取り巻く環境、背景も関係してくるので、個々によって様々な症状が出現します。だから、パターンが読めないという問題点もあり、そのために予測がつかない、分からない、という不安を生み出してしまいます。
認知症状態であってもなくても、普通の人
でも、私たちが認知症ケアに携わる中で思うことは、「認知症は、ちょっと物忘れがひどかったりする、普通の人」だということです。
認知症の人も、認知症になりたくてなっているわけではありません。単に甘えて生きているわけではないんです。
だから、ただただ、普通に受け容れてほしいという思いがあります。
私たちうえもりは、認知症の方に接するときに、できるだけ管理・監視・強制をせず、「観察」するよう努めます。その上で、必要なことはサポートさせていただきます。
その理由は、できる限りの「普通」を提供したいから、です。
「普通」というのは、場合によっては三度の食事を毎日毎日しなくてもいいこと、朝遅く起きてもいいこと、好きな時間に入浴することなど、一般的に考えたら別段おかしくないことが許されることだと思っています。
認知症は、全く別人になってしまうような状態ではなく、「普通」の延長上にあるもの。
もし、私自身が認知症になってしまったとしても、そのように思われたい。
だから私たちは、認知症であってもなくても、一人ひとりの「ありたい姿」を大切にしたいと思っています。
福祉のうえもり 施設長 桑原さわ江